Gさんの目的は古代銀杏を拾うこと

24日 旧大祝邸を訪れる。


 理由は「お父さんが来たがっていたから」と娘。


 やっと見つけた駐車場。普通車が3台ほど駐車できる広さである。


 江戸時代に建てられた表門。ほぼ西向き。


表門前の案内板とその内容








 諏訪大社上社旧大祝邸跡

 この一帯は、近世に諏訪上社の大祝が居館を構えた場所です。


 大祝とは、諏訪明神の依り代として諏訪社の頂点に位置した役職で、上社大祝は古代から近世末に至るまで世襲され「諏方氏」を名乗りました。中世までは諏訪の領主として政治権力を掌握、江戸時代に藩主諏訪家と大祝諏方家ができ政教が分離され、明治維新を経て神官世襲制度が廃止されるに伴い大祝職も廃止されました。生き神を祀る信仰が存在し続けた神社は全国でも珍しいと言われています。


 大祝の居館は、中世までは前宮の神殿にありましが、遅くも織豊期にはここに居館を構えたと考えられ、それに伴い周辺に宮田渡と呼ばれた集落が形成されました。東に流れる旧宮川は堀の役目を果たしていたとも言われます。


 文政十三年(一八三〇)に焼失したのち天保年間(一八三〇~四四)に再建された建物が、敷地とともに縮小を繰り返し、主屋については、近現代の大きな改修跡はあるものの、北側の三つの部屋はほぼ天保年間の姿を保ったまま現代まで残されています。他に、江戸時代の表門、土蔵が残っています。


①依代(よりしろ)
祭りにあたって神霊が依りつくもの,また神霊が意志を伝えるため人間界に現れるときに依りつくものをいう。

②依り代、依代、憑り代、憑代(よりしろ)神霊が依り憑く(よりつく)対象物のことで、神体などを指すほか、神域を指すこともある。


 見学路入口。









 生き神様のお屋敷に向かう。




 これが大祝邸。














 通って来た見学路。




 障子が破けている。火付けなどの心配はないのか? 『警備担当・JSU・SECURITY ALARM・日本連合警備』の文字が見える。警備会社に委託しているようだ。


 樹木でよく見えないが、ここが玄関らしい。ほぼ南向き。
 建物の東側。
 東側の遊歩道。
 建物も庭も荒れ放題だ。


『遊歩道以外立入禁止』になっている。






 迷わないように細い木材で仕切られている。












 落ち葉で遊歩道が見えない箇所もある。





 建物が傾いている。この現状だと諏訪市にとって迷惑なお荷物でしかない扱いだ。




 銀杏と土蔵。


 室内は分からないが、傷みがないように思う。とてもいい土蔵だ。
 越後二十村の土蔵は、豪雪地なので全部引き戸の三重構造。最初は厚さ15~20㎝ほどの重い土製次は鍵で開ける丈な木製。そして最後は鉄の網戸になっていた
 入った隅に味噌樽があり、板戸を開けると米穀類が積まれており、2階は衣類や食器、書類などが保管されていた。穀蔵にはネズミが住み着いており、年に1~2回の燻蒸が欠かせなかった。2階には蛇もいた。鼠穴から出入りしていた。蛇の目的は鼠だ。
 分厚い壁と少なく小さな窓で、密閉性と保温性が高く、夏涼しく、冬暖かい構造になっている。防音効果もあるため静かだ。二十村郷木沢(きざわ=長岡市)で、実際に土蔵を改修した家に住んでいる人がおり、住み心地を聞くと快適だと言っていた。
 この土蔵は、珍しい平屋造り。降雪量が少ないためだろう。雪の少なさが建物の傷みを少なくしている。


















 江戸時代のものとは思えない新しさを感じる。


 造りの頑丈な土蔵。










 今日の主目的の古代銀杏。樹勢は良好だ。
 諏訪市天然記念物に指定されている。
案内板とその内容

大祝家のイチョウ
諏訪市天然記念物
種名 イチョウ(イチョウ科)
推定樹齢 190~200年(平成七年現在)
大きさ 目通り幹周3m67
 イチョウは、中国原産で雌雄異蕪、古く日本に渡来し、寺院や公園に植えられたり並木として使われる。
 この木は雌木では市内最大であり、秋にはギンナンと呼ばれる実がたくさんなる。「仏法寺のイチョウ(雄木)と夫婦である」という伝承がある。
 鑑定 昭和五十四年二月二十五日
       諏訪市教育委員会

 これだけ?


 天岩戸神社の公式サイトには次のように記されている。


 境内の御案内
④古代銀杏(こだいいちょう)
 古代銀杏は長野県諏訪と二ヶ所しかないと言われており特異な葉・実の形をしております。この銀杏の実を陛下の御料として御指定になり献納したことがあります。
 別のサイトを観ると、朝護孫子寺にも千手の公孫樹もあるという。朝護孫子寺とは、信貴山真言宗 総本山 朝護孫子寺(しぎさん ちょうごそんしじ)が正式名称。


 千手の公孫樹。これは滅多にない巨木。


 案内板。


 千手の公孫樹 仏手白果 樹令五百年
木の枝振りが千手観音の手に似て、又銀杏の形が仏の合掌される両手に似ているところから千手の公孫樹、仏手白果と名づけられた。中国産の品種で、日本では宮崎県高千穂の岩戸神社の境内にある一本だけとされていたが、昭和五十八年七月学者により偶然発見された。日本で二本目の極めて珍しい巨木である。
 真偽のほどは不明だが、日向高千穂の天岩戸神社と大和平群の朝護孫子寺、そして信州諏訪の旧大祝邸の3か所に古代銀杏が存在しているようだ。
 生家(オス)にも、母親の実家(メス)にも、そして隣家の庄屋宅(メス)にも銀杏の木はあった。そんな見慣れた銀杏よりもがっしりした枝ぶりのように思われる。


 北側から見た旧大祝邸。嘗ては大邸宅だったろうが、栄華を誇った大祝家も今は廃屋と化した。






 室内は分からないが、傷みがないように思う。とてもいい土蔵だ。
 越後二十村の土蔵は、豪雪地なので全部引き戸の三重構造。最初は厚さ15~20㎝ほどの重い土製次は鍵で開ける丈な木製。そして最後は鉄の網戸になっていた
 入った隅に味噌樽があり、板戸を開けると米穀類が積まれており、2階は衣類や食器、書類などが保管されていた。穀蔵にはネズミが住み着いており、年に1~2回の燻蒸が欠かせなかった。2階には蛇もいた。鼠穴から出入りしていた。蛇の目的は鼠だ。
 分厚い壁と少なく小さな窓で、密閉性と保温性が高く、夏涼しく、冬暖かい構造になっている。防音効果もあるため静かだ。二十村郷木沢(きざわ=長岡市)で、実際に土蔵を改修した家に住んでいる人がおり、住み心地を聞くと快適だと言っていた。




 西側から見た様子。昭和戦前の民家の風情だ。降る雪や明治は遠くになりにけり』。中村草田男が昭和6年(1931)と詠んだ句である。私が青年の頃は、明治生まれの人も多かった。大正生まれは壮年だった。隔世の感がある。




 表門は太い柱で造られている。表門と土蔵だけが往時の繁栄を偲ばせる。


 敵の侵入を防ぐことを目的とした頑丈な造りだ。生き神様とはいっても、自ら力で敵から身を守らなければならない様子が伺える。


 内側から見た門。神社を思わせる屋根になっている。






 駐車場に戻る。


 拾った『古代銀杏』。



※位置(名称・住所・標高・座標)

◎諏訪大社上社旧大祝(おおはふり=おおほうり)邸跡

長野県諏訪市中洲1606
766m
36.000355,138.127101

◎天岩戸神社

宮崎県西臼杵郡高千穂町岩戸1073番地1
334m
32.734621,131.350590


◎信貴山真言宗 総本山 朝護孫子寺
奈良県生駒郡平群町信貴山2280−1
279m
34.609258,135.670573

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