◎高遠城址公園

26日 高遠城の石垣。


 城下から移築された問屋門


 高遠城を中心に整備された公園。


 桜雲橋。


 桜雲橋から振り返った問屋門。


 城址公園内。




 高遠城址公園。


 高遠城の戦い(古戦場跡)。




 国の登録有形文化財の指定を受けた高遠閣。


 1936年(昭和11年)、高遠閣が完成。現在、高遠閣は観光客の休憩所、案内所として使用されているが、元々は地域の集会所として作られたものであった。










 高遠城は戦国時代、武田信玄の家臣であった山本勘助が縄張りした堅城で城主は武田氏一族が務めた。別名兜山城ともいわれる。
この時籠城していた信玄の娘・松姫(盛信の妹)と、攻城軍の総大将織田信忠(織田信長嫡男)は元婚約者同士であり、落城にまつわる悲劇として知られている。



















 1960年(昭和35)、タカトオコヒガンザクラの樹林は長野県の天然記念物に指定された。また1978年(昭和53)より花見のシーズンのみ有料となった。












































 本丸から中央アルプスを望む






 城は南アルプスの裾野にあり、春になると1500本のタカトオコヒガン(サクラの一種)が咲き乱れ、城は赤みを帯びた鮮やかな桜色に包まれる。


 日本さくら名所100選に選定されている。








 毎年4月上旬から5月上旬にかけての観桜シーズンには「高遠城址公園さくら祭り」が催され、夜間のライトアップも行われ全国から花見客が訪れる。


 江戸時代になると高遠藩の藩庁となり、京極氏・保科氏・鳥居氏と城主が交代した。




 1691年(元禄4年)に内藤清枚が3万3千石で入封。以後、高遠城は内藤氏8代の居城として明治維新を迎えた。


 2006年(平成18年4月66日、日本100名城(30番)に選定された。














 明治4年、廃藩置県によって高遠城は取り壊しとなり、城内の樹木は競売にかけられ売り払われたため、この場所は荒地となっていた。1876年(明治9)、これを見かねた旧藩士たちは城跡に桜を植樹し、城下町にあった門を移すなどして公園として整備した。







※位置(名称・住所・標高・座標)

◎高遠城址公園
長野県伊那市高遠町東高遠
797m
35.833289,138.062895

◎高遠閣
長野県伊那市高遠町東高遠2295
807m
35.833499,138.063777

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