〇矢彦神社の御由緒

20日 今までしっかりと読んだことが無いので、記されている通りに読んでみた。


信濃国二之宮 矢彦神社
御祭神
正殿 大己貴命 事代主命
副殿 建御名方命 八坂刀賣命
南殿 天香語山命 熟穂屋姫命
北殿 神倭磐余彦天皇 譽田別天皇
明治宮 明治天皇
御由緒
当神社は、信濃国二の宮であり、上伊那郡五十四か村の総鎮守であります。遠い神代の昔、大己貴命の国造りの神業にいそしまれました折、御子事代主命・建御名方命をしたがえて、この地にお立ち寄りになったと伝えられております。
古くから皇室の御崇敬が厚く、勅使の御差遣もしばしばありました。
欽明天皇の御代、大己貴命と事代主命を正殿に、建御名方命と八坂刀賣命を副殿におまつりし、矢彦神社としてのかたちがととのいました。そして例祭日を毎年八朔(旧八月朔日)と定め田ノ実祭(憑祭)といわれました。
天武天皇の御代に勅使を下向、新宮を造営し、正遷宮祭と御柱祭とが七年毎の式年祭と定められました。白鳳二年(六七四年)のことであります。
安徳天皇の御代、木曽義仲が宮材を木曽山林より伐り出し社殿を造営し、以後約七百年にわたつて宮材を木曽山林から出材されることになりました。
以来、鎌倉から徳川時代に至るまで、武田晴信(信玄)、勝頼をはじめ、徳川幕府の崇敬厚く、再三社殿を造営されました。とくに、慶安二年(一六四九年)、徳川家光より、神領として、高十石、及び付属山林諸役免除の公文御朱印状を献納されました。
明治天皇の御代、明治五年(一八七二年)社格が郷社となり、同十四年(一八八一年)有栖川宮熾仁親王殿下より神号の額字を賜りました。
明治二十七年(一八九四年)十月一日明治遥拝殿を創建。
明治天皇の生祠明治宮は、わが国でもはじめてのものであります。
明治三十三年(一九〇〇年)社格が県社に昇格。
御造営材の御下賜は昭和七年(一九三二年)まで続き、「天賜材式年造営神社」と称せられるにいたりました。
昭和十一年(一九三六年)五月七日、巣山沢御料地を御造営材供給の備林として、二十四町歩余山林御下賜の天恩をうけました。
例大祭 九月朔日(現在は十月第一日曜日)
式年御柱大祭 毎卯酉年五月

※振り仮名
大己貴命(おあなむちのみこと)
事代主命(ことしろぬしのみこと)
建御名方命(たけみなかたのみこと )
八坂刀賣命(やさかとめのみこと)
天香語山命(あめのかごやまのみこと)
熟穂屋姫命(うましほやひめのみこと)
神倭磐余彦天皇(かむやまといわれひこのすめらみこと)
譽田別天皇(ほんだわけのすめらみこと)
明治天皇(めいじてんのう)
差遣(さけん)
憑祭(たのめまつり)。
正遷宮祭(せいせんぐうさい)
郷舎(ごうしゃ)


※位置(名称・住所・標高・座標)

矢彦神社
長野県上伊那郡辰野町小野3267
831m
36.054507,137.969226

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